昭和50年01月18日 月次祭
信心を頂いておると言う事が有難い。本当に自分の家にもし御道の信心を頂いていなかったら、合楽に御神縁を頂いていなかったらと言う風に思える人は、合楽に沢山あると思います。本当に信心を頂いておると言う事の有難さが、先ずはしみじみと解らせて貰うおかげを頂かなければいけません。それだけでは本当のおかげではありません。何処までもね。本当に信心を頂いておるから有難いと、私共自身が思うだけではなくて。
それを第三者の見た目、言わば信心のない人達が見ても、成程信心を頂いておられるから、有難そうだなぁと幸せそうだなぁと、信心ちゃ有難いもんだろうなぁ、私達もその何か機会があったら一つ、信心させて貰いたいな。あぁいう信心ならばと言い思いされる程しの信心を頂いた時が、本当に信心を頂いて有難いと言う時だと思います。今お祭りを奉仕させて頂くのに、この奉仕着を何時も久富さんが奉仕して、着けて下さるんです。所が中へチョッキをこの白衣の上から着るんですけど。
何時も所がそのチョッキを共励殿が暖かいものですからね。つい忘れて着せてない訳です。それで又この教衣をとって、それからあのチョッキを着て、そしてこの教衣を付ける訳なんです。丁度鏡の前がこうして、あのしかしあの面白いもんですね。あのこの教帽だけを被って、白衣だけではちょいと可笑しいですよ。はっはは、此れを取っときゃいいです。けども教帽だけを被ってね、白衣を着て袴をはいてるなんて、そら可笑しくて見られない。けれども此の、教衣と付けるとですね。
こりゃ本当に誰がデザインしたか知らんけれども、昔の人のこら考案でしょうけれどもね。もう素晴らしい、此れはスタイルだと私は思いますよ、ね。かと言うてほんなら、又帽子を脱いどって、教衣だけ着とったら、こげん可笑しい事はなか。どうだろうかこう言う様な服が、ね。まぁ流行しないだろうかと。こら良いですよこらなかなか。ちょっと格好がね良いでしょうが。(笑い)こんな風でこうしゃっかがんでね、こうやって外行くとでも歩く様なね。
こう言う様なあのスタイルが流行る時代はないだろうかというて、秋永先生に話したが「そればってん、袖ん、ガバガバすっとばこうしたつ」ち、言うから「そるきん、あぁたこげんしぼりゃ良かもん、そげんとは」自分とおり言わんで、こうやって、しぼっといてから中々こう、優雅なねぇ。あっははまぁスタイルだよと言うて話した事でした。ね。こうして着とれば、可笑しくないでしょうが。良いでしょうが。いや、こう言う様な姿に、皆んなが矢張り憧れる人さえあるんですから。
今度ここから、四名学院に行きます。今日話し前講致しました、正教君も今度は学院に入ります。ね。言うならば黒衣に憧れる。まぁそう言う訳でもなかろうけれども。先程話ておりました様に、ね。もうそれこそ命がけで御道の信心によって、ね。世界のいうならば、難儀な氏子達の救い助けられるいわゆる道は、例えば自分のね、考えはどんなに素晴らしい考え方であっても、ね。
お粗末な政治の為に、人間が難儀をしておる。だからそこに素晴らしい政治をすると言う事で、例えば政治家を目指させて頂いても、それでは本当な事ではない事が解って来た。此れは今、合楽で言われておる所の、合楽示現活動に待つより他は無いと言う所から決心が付いたんです。その為には学生運動にまで参加した。ね。あまりにも世界の言わばその、矛盾しておる。真面目で働いておる人達が、下積みになって、言わば難儀苦労しておるのが見ておられないと言うのです。ね。
此れは今合楽で言われる所の、合楽示現活動この示現活動に参画すると言う事は、私共の働きと共に天地の親神様が、先に立って不思議な働きを示し現して下さる程しの内容を持った運動であり活動であるからもう此れに待つより他にはない。自分の生き甲斐を此処に掛けるという訳であります。ね。素晴らしい事ですよね。信心をさせて頂いて、本当に私は此の年末にも、皆さんにお話を聞いて頂きました様にです。ね。合楽のご信心を三年五年、又は、十年二十年と頂いておる程しの方達ならばです。
先ず貧乏のない世界に住んでおると言う事。病気のない世界に住んでおると言う事。争いのない世界に住んでおると言う、この事実をね、言わば見た時にです。本当におかげ頂いておるもんだなぁと。合楽示現活動、始まってもう七八ヶ月になりますでしょうか、ね。それからその働きに催されて、御神縁を頂いて難儀な人達が沢山参って来る。そう言う人達の上に、まだまだ難儀がありますけれどもこの人達も、ね。近い将来に必ず貧争病のない世界に住む事が出来るだろうという。
言われて見ると成程、おかげを受けておるなぁと。本当に信心を頂いておると言う事が、有難いと言う事が、ね。感じられるしみじみと、もし合楽に御神縁を頂いてなかったら、今頃は自分の一家はどうなっておっただろうかと、思う人が幾らもあるだろう。ね。そう言う例えば、有難さに浸っておると言う事だけでは、ね。勿論そう言うおかげを頂かなければなりません。ね。今銘々に例えば難儀を抱えておる人は、そう言う例えば、所までそう言う一つの水準と言った様な所迄、上がらなければいけない。ね。
お金に難儀をしておる人は、お金に難儀をせんで済む所迄。病気をしておる人は、健康の様子に、それこそ薬を頂かんでも済む程しのおかげを頂かなければならない。人間関係で悩んでおる人はです。本当に一家中が、拝み合うて行けれる様な家庭にならせて頂く所迄、一つお互いがおかげ頂かなければならない。そこに言わば信心の有難さが、しみじみ感じられるのです。
けれども只自分自身が有難いと感じられるだけの、言うならマイホーム的なおかげではいけないと言うのです。ね。それは丁度、私がね。教衣を着けてこの此れを脱いだ時の姿の様な物ではなかろうか。ね。又は教帽だけを取って、ね。此れだけを着ておる様な姿じゃなかろうか。ちょっと可笑しいですよ、こげんしとる。どうですかこげんしたっちゃ、可笑しかでしょうが。
やっぱ此れを被らにゃいかんです。此れを被るとぴしゃっと決る。ね。此れがまたこげんして、よごどったっちゃいかんです。そりかち言うて、又此れがこげなふうになっとるならですね。(一同笑い)可笑しいでしょうが。そるきんなら、ちっとばっかり、粋にかぶるち言うてから、こんだ斜めにどん被ったっちゃ、(大笑い)あっはははやっぱいかんです。此れをやっぱ鏡を見てです、ね。まともに被ってそして、此れと是が足ろうておかなきゃいけんのです。
そういう信心を頂こうと言うのが、今日の御理解なんです。ね。だからまぁだ皆さんの場合は、あれどんが信心なするけれども、はぁ有難い有難い、おかげおかげち言いよるばってん、何がおかげかと言うておる人があるかも知れんのですよ。ね。ですから自分達が、本当に私が見た所です、ね。ほんなら三年、五年と例えば信心を合楽で続けておる人ならばです。先ずは、只今私が申しております様に、合楽に御神縁を頂いておったと言う事が有難いと、しみじみ思える人ばっかりだと私は思うです。
それは但し、ほんならこの教帽を取っておる様なもんです。此れだけで有難いと。言うなら、まぁその何と申しますか、自分よがりかも知れません。ね。自己満足かも知れません。成程金光様のご信心ちゃ有難いじゃろう。一家中があの様に円満で、あんなに貧乏し御座ったけども、この頃金のこつだん心配しよりなさる風じゃなかと。ね。そしてあそこはとにかく、薬箱が無くなったと言われる位に、皆んなが打ち揃うて健康だが、矢張り金光様の信心ちゃ、有難いじゃろう。
有難いなら、一遍ご縁が合ったら自分も参りたいなと言う様なね。ものを思わせる程のおかげを頂いた時が、この教帽、教衣を、きちっと着けた時の姿であると思うのです。今年はそう言うおかげの頂けれる年なんです。自分だけではない。誰が見ても、金光様のご信心は素晴らしいなぁと。あぁ言うおかげが受けられるなら、自分もと言う事になって来るのであり。そう言うおかげを頂いた人達がです。ね。例えば正教君がお話を致しました様にです。自分の生涯を命掛けでです。
世界の難儀の毎日のお届けを致します、ね。世界中の氏子に和賀心をと書いてあります肩書きに。もう自分なんかは死んでも良いと、正則さんとはあれは嘘じゃないです。どんな強い例えば、ほんなら権威を持った人達の前にでも平然として、自分の考えを述べる。ね。それが例えばあの一部の正義に燃えておるというかね。学生運動なんかそう言う所から起こって来るだろうとこう思う。
先日も今久留米の市長選で毎朝、あちらの奥さんが参って来る。昨日も市長さんとご一緒に参って来ておる。毎朝高芝さんの車に便乗してお参りをして来る訳なんです。ね。それでまぁお参りして来るたんべんに、私はそう言う意味の事を話すんです。自分がね久留米市の市長になったが、久留米市民が一番喜ぶんだ又助かるんだと。自分が市長になったが久留米が一番立派になるんだと言う確信を持ちなさいと私が言うんです。
只市長にならなければ可笑しいから、市長になるじゃいかん。儲かるからじゃいかん。只地位やら名誉やらが願いであっちゃならない。自分が市長になったが、一番久留米市民が喜ぶ。自分が市長になったが、久留米市民が一番久留米の為になるんだという確信を持ちなさい。ね。言うならばです。久留米市民可愛いという一念に燃えなさい。人類の上に燃えなさい。と言う訳です。ね。それは色んな過去にはです、ね。世界中の主だった国が集まって、そして世界の平和を言わば協定する。
話し合うねそれは結局強い国、もう自分達だけがおかげ頂いておる国がです。もう此れを犯されてはならんから。もう取るだけ取っといてから、此れからはもう戦争はせんぞ、喧嘩はせんぞと言う様な言うならばね、その自分中心の平和を願うと言う様な世界真の平和ではいけんのです。ね。教祖様が願って下さる、ね。金光様が願って下さる、ね。世界真の平和、世界総氏子の助かりと言う事を祈り願うと言う事がです。ね。
もう真実氏子可愛いという親神様のお心を心として、言うならば人類愛に燃えての平和運動であり、平和活動でなからなければならない。合楽で言われる所の、ね。世界に和賀心時代をこう頂こうと言う様な物でなからなければいけないと言うのです。ね。だからそう言う高度なね言うならば、自分の事よりも人の事が本気で祈れれる、例えば有方にならせて頂かなければならんのです。
それには先ず私共が、自分だけがおかげを頂いておれば良い。とにかく有難い信心ちゃ有難いという、言いふらしておるだけではいけないのだと。ね。人が見てもね。誰が見ても金光様のご信心とは、有難いと言う言うなら教帽、教衣をこうやって、きちっと着けた時の様な姿と言う物がです。自分の信心の上に又は、家庭の上に現れて来る程しのおかげを頂かなければならん。
それには貧乏はしとらん、健康ではある、争いは無いと言うとっても。もっともっとです、それが目立つ程に大きな、私はおかげでなからなければならん。ね。お金を借り回ってさるかんでも良かと言うだけではなくてです。ほらもうあそこには、幾ら金があるじゃら分からん。ね。そう言う一つの分限者の徳を、今年は受けられる年だと言う事です。元旦祭にも申しましたように。ね。
今年はね、私共が今までどう言う信心させて頂いたならば、おかげを頂くであろうかと。言うならばあれも様々な信心をして見たと言う事です。ね。今年は神様がそうではなくてです、ね。神様の方がおかげを下さろうと言うお年柄ですから、私共が頂こうという姿勢を造らなければならんと言う事を、まぁ日々申しておる訳であります。ね。それには矢張り段階があります、ね。今朝からもお話聞いて頂いたんですけれども。信心は見易い物じゃが氏子から難しゅうすると。
信心が十年と続いたら、我と我が心を奉れとね。と言う様な御理解に基づいて、末永先生が昨日此処で八年間、修行させて頂きますけれども、四時の御祈念に今日程、昨日の言葉で今日ほど四時の御祈念を、言うなら一時間をぽっつり、御祈念をさせて頂いてです。信心の有難さをしみじみと、朝の御祈念の有難さを、しみじみと感じたと言うのである。今まではね。畳にうっ付いたらもう鼾が出る様に眠かった。八年かかった。ね。して見ると朝の四時の御祈念がです、ね。
有難うなって来た楽しゅうなって来たと言う事は、既にもう信心が見易う成って来たと言う事です。その前の日までは難しかった訳です。あぁそれこそ家の若先生じゃないけれども、善導寺に修行中に、朝の御祈念を仕えた。で、恐らく御祈念中眠ってしもうとったかなんかじゃないでしょうかね。そるけんもう恥ずかしかったけんで、そげな風に話たっじゃろ。御結界に座ってから、開口一番にこう言うたげな。「金光様の信心とは、眠いものだ」ち言うた。ね。
それをあの渕上先生が、私に「あんたげの若先生は、面白いこつ言うばい」ち。「どげな事言うたですかの」ち言うたら、「金光様の信心とは眠いもんだ」ち言うたち。私はそれを聞いてから、本当に有難いなと思いました。そうです金光様の信心は眠たいものだと言う事が、一遍解らなければ金光様の信心な解らん。ね。金光様の信心な本当に、例えば言うならば、末永先生は八年間眠いものだと思い続けて来た訳なんです。そして言うならば開眼したと言うか。
翻然として朝の御祈念が、此の様にも有難い尊いものだと。眠気だんじゃない。有難さと言わば勿体なさで、畳がぬれる程しの有難い感動を受けたと言うのですから。もう其処には信心は難しい。眠いものだという間は難しい。栄四郎が丁度福岡の平尾教会に、学院から帰って直接、一週寒修行に参りました。学院からやらされた訳です。ね。それで昨日はあちらの信徒会長ご夫妻が、わざわざ送って来て下さった。もう本当に行き届いておられるのに驚いた。
あんまり大して大きな教会じゃないけれども、信者さん方がもう生き生きとして、御用が出来ておられる。ね。いや僕はもう家に電話掛けると迎いに来てくれる事になっておりますからと。送らしてもらわにゃと送って来なさった。丁度その半ばに月次祭があったそれで月次祭には合楽の大坪先生が、今日はお説教だち言うのじゃったげな。はぁ栄四郎が説教したち、もうそれこそ漫画のごたる話じゃったじゃろと私が言うた。
はっははは、ね。そこんにきがですそら本当に漫画のごたる信心ですよね。誰でもそうです。誰でもほんなら難しい本な読まんばってん。漫画ならこうやってそげなもの読んじゃ出来んち親が言うちから、自分が一生懸命読みよるじゃ。(笑い)そげん漫画ちは、見易いものなんです。ね。けどもほんなら、何時まで経っても漫画どん読むごたる信心じゃいかんでしょう。それこそ字引を引いて見て、そしてあの読まにゃ解らん位の難しい本も、しかもそれが楽しゅう、有難う読めれる様になった時がほんなもんです。
信心もそうです。ね。言うならば末永先生と、それこそ栄四郎の漫画の様な信心とをこうね。だからそう言う信心でも良いのだと言うのです。ね。但し、それがね生まずたゆまず続けられて、そして段々難しい事も解って行く様な。とても金光様の信心ちゃ難しいと人は言うても、自分自身は、ね。有難うして有難うしてと言う様な風になって来る様なおかげを頂かにゃならん。ね。
そして只今申します様に、一家中が信心のおかげで合楽のおかげでと言う、言うならばね。そういう喜びに浸れる程しの、一つおかげを頂いて貰いたい。そしてそれだけではいかん。それからもう一つですね。言うならきちっとこう着物を着けた時の様な姿に、信心がなって来なければいけん。誰が見ても金光様の信心ちゃ、素晴らしいなぁと言う。それには先ずおかげで示せと言う事。人間で示せ心で示せと言う事。心だけに有難いと思うその有難いと言う物がです。ね。
今まで百頂いておったものが、千も万も形の上に頂現す事に成って来たらです。どう言う事になるか。ね。それが人に目立たないはずが無いのです。ね。先日もある教会の信徒総代さんが参って見えた。朝の御祈念の写真を、私が丁度見ておる所へ参って見えたから、今毎日朝の御祈念、今此処まで来て詰まりますよ。こっから一杯詰まるんです。でお宅は朝の御祈念な、どげな風ですかち言うたら。まぁ大体四人ぐらい多か時で五人ち言われた。毎朝四人のお参りがある。
まぁ多か時で五人というて、自分も言いながら笑うておられましたがです。合楽の場合は、今朝の御祈念は、此処から詰まってぎっしりです。立錐の余地もない様に、もうしかも五時の御祈念には、一杯になっとります。それはね今年は神様が、おかげを下さろうという年なんです。ね。だから皆さんがです。そういう姿勢を見せておられるのです。先日福引会の時に、むつ屋の社長であります信司郎さんが言っておられました。ね。今年こそは合楽のリズムに乗りたいとこう言ってました。ね。
そういう例えば今年は、姿勢を作ると言う事がです。神様が下さろうとしておるのですから、頂ける事になるのです。合楽で今どげな事があっとるやら解らん位な事ではおかげにならんのです。今毎日どう言う事があっておるか解らん位名事では、ね。だから今日も先程福岡の方達が、二三人お届けがありました。ね。中々朝の御祈念にお参りが出来んけれども、月次祭の時位は今晩泊めて貰うて、明日の言うなら寒修行に参加させて貰うて帰りたい。だから泊めて頂きたいと言う様なお届けがありましたがです。
どうか工夫してからでもです、ね。それこそタクシー雇うてからでもです。一晩此処に泊まり掛けてからでもです。今合楽でどう言う様な事があっとるか位な事が解って、自分達もそう言う信心をさせて貰うと言う様な姿勢を取る事がです。ね。今年神様が下さろうとしておるです。ほんならこう言う足ろうたおかげ。誰が見ても、ね。信心の有難さが解る程しのおかげの頂けれる年ですから。ほんなら姿勢を作らなきゃいけんのにです。今寒中修行が在ってるやら無いやらです。
知らない様な事で、おかげが頂けるはずはないじゃないですか。今年はそう言う年なんです。ね。表行よりも心行。自力じゃいけん。もう他力に縋らなきゃいけない。もう最近私は此の他力に縋ると言う事の、もう限りないおかげに繋がると言う事の体験を、日々させて頂きます。例えばお神酒はお月次祭たんべんに、何百本と言うてお供えがあると言うのは、此れはね今年はこういう、限りないおかげの頂けれる年だという、一つの見本であり、あれは手本の印なんです。
此れが又何時までも続くとは思われません。ね。そらもうどんこんされんです。お広前は酒だらけになってしまう。ふっふふ(笑い)今でっちゃそげんですからね。だからこう言う無尽蔵の限りないおかげに繋がる、神様の懐に手を突っ込んだ信心と言うのは、そう言うおかげが受けられるぞと、神様が皆さんに示しておられるのですよ。ね。だからそう言うおかげを頂く為にはです。只教帽を被らんで、此処だけ着とって、只自分だけは信心しとる。まぁ信心しとるから有難い、本当に有難いでしょう。ね。
けどもそれだけではいけない。自分が悦に入っとるだけではいけない。本当の信心と言うのはです、ね。自分自身も有難いがです、人も又それを見て本当にあんた方、金光様の信心しなさるから本当に幸せですねと、もう言われ見て貰えれるだけのおかげを頂いた時が、愈々本当な信心だと言う事が言えます。だから言うならば、合楽は愈々そう言う、本当の信心に今年こそは、ね。取り組ませて頂くと言う事で御座いますから、ね。先ず銘々の言うなら、漫画的な所から始まっても良いじゃないですか。ね。
けどもそれを続けて行く内にです。なら末永先生が、ね。四時の御祈念が有難うなったと言う様なおかげにも、段々なって参りましょう。信心が見易う楽しい物に成って来た。ね。そこにおかげが約束されない筈はない。そういうおかげを見た時にです。信心のない者も、成程成程と合点が行く様なおかげ。私も一つ連れて参っくれ、そういう雰囲気の中に、私は合楽示現活動と言う物は、なされて行かなければならないと思うので御座います。先ずは自分が頂いておるおかげを引っ提げての。
合楽示現活動でなからなければいけんのです。それにはね私共の信心の視野と言う物がです、ね。先程ね正教君が話しております様な、ね。本当に一つ人が助かると言う事。言うならば人類愛に目覚めさせて貰う所の信心。そして世界真の平和を真実願わなければ折られない信心、ね。自分と共に言うならば難儀な人達が、本当に助かって行く道を明示していけれる様な信心。それには自分自身が先ずは頂かなければならんと言う事を、今日は聞いて頂ました。
どうぞ。